ビバリーヒルズで育ったホテリエ、サム・ナザリアン <後編>

(C)Yangsen

ヤンセンです。
<前編>の続きです。

29才にしてアメリカン・サクセス・ストーリーを実現

 イアン・シュレイガーのホテルチェーン、モーガンズ・ホテルズ・グループを買った男、サム・ナザリン。彼は1975年、イランの首都テヘランで生まれた。父親はイラン有数の建設会社を経営する業界ではドン的存在で、叔父はパーレビ国王とも個人的に親しい実業家という、非常に裕福な一族だった。
 ところが、1979年、彼が4才の時、イラン革命が起きる。パーレビ国王はアメリカに逃れて亡命。パーレビ派の富裕層や知識人たちもこぞってアメリカに亡命した。その多くがロサンジェルスのビバリーヒルズに定住したため、現在でも住民の四分の一がイラン系だという。ナザリアン・ファミリーもまた、イランで築いた莫大な財産を失ってアメリカに亡命し、ビバリーヒルズに身を落ち着けた。
 サムは、4人兄弟の末っ子で、年が離れた兄がひとり、姉が二人いる。亡命時、サムだけまだ物心がつかない幼児で、ティーンエイジャーの兄や姉たちに比べると、アメリカ社会にもなじみやすかったにちがいない。それでも、幼な心にいろいろ感じるところはあったらしい。
 サムが29才の時に、【若きタイクーン、サム・ナザリアン】というタイトルで『Wマガジン』というファッショングラビア誌でインタビューされた時にこう語っている。
 「僕らイラン人はアメリカ人にとっては LA への侵入者だと思われていた。実際のところ、僕たちはクールじゃなかったし、カルチャーも知らなかった。ファッションにしても、何をどう着ればいいかもわからずダサかったし」
 この『Wマガジン』というのは、Wホテルとかによく置いてある雑誌なんだけど、Wホテルとはなんの関係もない。ものすごく金がかかったファッションモード誌で、後にコンデナスト社に買収された一般誌。そんなイケてる雑誌にインタビュー記事で取り上げられて、サムもすごくうれしかっただろうなぁと思う。
 サムは地元の子たちが通うビバリーヒルズ高校(公立高校)に通ったが、ここは今でも四分の一はイラン系という学校。高校時代は、ビリヤード場の偽造IDを作って友達に売っては小遣い稼ぎをやってた悪ガキだったそうで、「父から金をもらおうと思ったことはなかった」なんていう、まあ、よく言えば、自立心旺盛な子どもだったが、勉強にはあまり興味がなかったようだ。NYU(ニューヨークの私立大で金持ちの子が多い)に進むも、在学中に投資ビジネスをはじめ、21才の時に通信ビジネスに投資して成功を収めた。
 このサムの父親と伯父というのが、まだ創業時のIT企業、クアルコムに兄弟で投資して莫大な利益をあげ、その後、宇宙産業や軍事関連企業にも投資して成功をおさめ、この頃にはアメリカでも有数の億万長者になっている。そのファミリーで保有する莫大な資産を分散させるため、不動産投資ビジネス部門を拡大するときにサムが担当となった。

ハリウッドでエンターテイメント・ビジネスを起業

 不動産投資ビジネスでめきめきと頭角をあらわして成功をおさめたサムは、大学は中退し、2002年、自らの幼少時のニックネーム “SamyBoy” を略して名づけた SBE社(E=Entertainment)を創業した。
 オフィスはビバリーヒルズのビバリー・ブルバードに面したビルに置いた。マドンナのレコードのレーベルがあったビルで、エンタテイメント業界の人々の出入りも多いところだった。
 このSBE社創業からわずか3年後、彼はホテルチェーンのSLSホテルズ、有名ナイトクラブやレストランチェーンのオーナー、そして、ハリウッドの映画プロデューサーとして、エンタテイメント業界の “ヤング・タイクーン” と呼ばれるようになる。ロサンジェルスの街を眼下に見下ろす丘の上に建つ、ジェニファー・ロペスからキャッシュで購入した1250万ドル(約14億円)の豪邸で、ヴィンテージもののジーンズ姿で『Wマガジン』のインタビューを受けるサムの気分は最高だったにちがいない。
 この時、ロールモデルは当時、不動産王と呼ばれていたドナルド・トランプか?と尋ねられたサムは、「いや、ちがう」と答え、デンバーを拠点にスポーツチームやコンサート、シアターなどエンターテイメント・ビジネスを展開している実業家の名前をあげている。やはり、ビバリーヒルズというハリウッドが身近な土地で、その匂いをかぎながら育った血が騒ぐのだろうか。
 僕もかつてハリウッドにイースト・ウエスト・コミュニケーションズという会社を持ってたことがあったけど、LAは好きじゃないからサンフランシスコに住んで、会社はアメリカ留学帰りの部下に任せてた。オフィスが入っていたビルにはいわゆる業界関係のオフィスが多く入っていて、ハリウッド独特の強烈な野心の匂いと熱気があったね。
 さて、サムの話にもどる。ロスカボスなど高級リゾートにも豪華な邸宅を購入し、一台数千万円の高級車をずらりと並べ、アメリカン・サクセス・ストーリーの道をまっしぐらに歩んでいき、プライベートジェットを購入したときには、「いわゆる金持ちの趣味にしたくないから」とか言って、エアラインを丸ごと買ったりもした。2014年には、「フォーチューン」誌の40才以下のトップ40リストに入る。
 そして、2016年、イアン・シュレイガーモーガンズ・ホテル・グループを買収する。

ホテルビジネスのパートナーはフィリップ・スタルク

 ホテルビジネスをやるにあたっては、「最高の人材を引き抜いてチームを作った」とサムは語っている。引き抜き先は、フォーシーズンズWホテル。そして、最大のポイントは、フィリップ・スタルクと専属契約を結んだこと。
 このスタルクをそもそもホテル界に引き込み、ともに手を取り合ってデザインホテルの原型を作り、世に広げたのは、イアン・シュレイガーだった。そのシュレイガーの長年にわたる盟友だったスタルクサムはくどき落とした。
 スタルクいわく、「サムはものすごく好みにうるさい男だよ。そして、誰かの真似をすることは大嫌い」。なんていうと、何かと口を出しそうな感じなのだが、「サムは僕のデザイン・チョイスについては一切文句を言ったことがない。サムは僕を信頼している」。この後に、「まあ、高額の支払いをしてくれてるしね」がつくのだが。サムスタルクを上手に使っているのか、はたまた、スタルクサムにうまく使わせているのか、どちらが上手なのかはわからない。
 ライバルのホテリエは?と尋ねられたサムはこう答えている。
「イアン・シュレイガーとアンドレ・バルザス。二人とも天才だし、先見の明がある」
 この辺の率直さ、ストレートにこう言えることが、もしかしたら彼の成功の理由のひとつかもしれない。あるいは、「僕はその上を行くよ」という彼の自信かもしれないね。

心はアメリカ人だけど… 揺れるアイデンティティーの中で

 ナザリアン・ファミリーの出自は「ペルシアン・ジュー」と呼ばれる、イラン在住のユダヤ人である。彼の父は、慈善家としても知られているが、地元カリフォルニアの学校関係や文化事業への寄付に加え、エルサレムの大学やユダヤ系団体にも多額の寄付をしている。地元のウエストウッドにはシナゴークも建てた。ユダヤ人としてのアイデンティティーを強く持っている。
 彼の兄姉たちはといえば、兄は投資会社の創業者&CEOとして不動産投資やレストランビジネスなどの事業を行なっている。一見すると、サムと同じビジネステリトリーだが、ターゲットはまったく異なり、ラグジュアリービジネスを対象とするサムに対して、兄の方は学生向けの格安ホテルや住宅、レストランもファストフードやカジュアル路線。
 そして、姉のひとりは、大口の慈善家としてアメリカではよく知られている社会活動家。米国最大のユダヤ人団体で、世界中の反ユダヤ活動を監視しているADL(名誉毀損防止同盟)のバイス・プレジデントを務めているという、バリバリのユダヤ人アイデンティティーの生き方をしている女性。
 サムには悩んだ時期があったという。「ペルシアン・ジュー」として生まれた自分が、アラブとイスラエルの紛争解決のための何か橋渡しができるのではないだろうかと。商談をするという父に連れられ、アラファト議長と会った経験もある。武器ではなく、「ユーモアとかパーソナリティーとかでなんとかならないものか」、同じ人間なのだから、と考えた。
 しかし、彼はある時から自分はビジネスに専念することにした、という。その理由は語らない。
 物心つかない頃からビバリーヒルズで育ち、ビバリーヒルズ高校に通い、友人たちとバスケットを楽しみ(後に高校のバスケットボールコート作りに20万ドル寄付している)、金持ちの息子としての青春を送ってきたサムのアイデンティティーは、両親や姉たちとはちょっとちがう。彼のビジネスにおけるフットワークを見ていると、アメリカのビジネスマンそのものなのだ。
 ことあるごとに、地元カリフォルニアの学校や文化事業に寄付を行い、アメリカン・サクセス・ストーリーにのっとった派手なライフスタイルを見せつけながらも、「でも、僕って、実はけっこう堅実なんだよ」というアピールも同時にしないではいられない。元モデルの妻との結婚についても「モデルだからって、僕は彼女を見た目で選んだんじゃないよ。彼女は6カ国語も話せるし、僕は彼女と話すのが大好きなんだ」と語っている。そんなこと別に言わなくてもいいのにね、言わずにいられない。おそらく、自分でもよくわからない自分が内にいるのではないだろうか。これからもウォッチしていきたいと思っているホテリエのひとりだ。

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