イアン・シュレイガーが歩んできた世界

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ヤンセンです。

デザインホテルという新しいホテルのジャンルをしめす言葉が、ホテル界で使われはじめたのは1980年代後半のことだった。今や、昔むかーしのことになっちまったがね、ん。

そのきっかけとなる「モーガンズ・ホテル」を1984年、ニューヨークに作ったのがイアン・シュレイガーだった。上のイラストの人ね。

昨年10月にオープンした「東京エディション虎ノ門」のホテルブランド「EDITION エディション」マリオットと組んでつくった人、と言った方が、若い人たちにはわかりやすいかもしれない。

上のイラストは彼が50代頃の写真をもとにして描いたんだけど、あらためてじっくり写真を見てみると、この男、オールラウンドな総合力があり、人間的な安定感がある。時代をつかみ、多彩な才能をまとめあげていく総合プロデューサーにはぴったりの資質だ。

シュレイガーは、ニューヨーク・ブルックリンでユダヤ人家庭に生まれ育った。父親は婦人服の縫製工場の経営者というから、おそらく金には困らないで育ったのだろう。ユダヤ人の男にとっては存在が非常に大きい母親(超マザコンが多いんだよね、って、当の本人たちがそう言ってるんだ)は彼が23才の時に亡くなっている。

シラキュース大学時代にはユダヤ人学生の友愛組織の会長をつとめていたというから、当時からオーガナイザー的存在だったようだ。仕事のパートナーだった故 スティーヴ・ルベル(1989年エイズで死去)とはここで学生時代に知り合い、共に事業を起こし、時代を先駆けるディスコもホテルも一緒につくり経営し、コケて塀の向こうのクサい飯も一緒に食った。

そもそもは、ディスコがはじまりだった。

1970年代においてディスコとは、ライブでいろいろなジャンルの人々が一堂に会し、同時間帯にいて “交感” できる異空間。時代のエッセンスが詰まった「旬」の場だった。

二十代の若きシュレイガーたちは、ボストン、ニューヨークのクイーンズと、次々にディスコをオープンして成功させ、ついに1977年、念願のマンハッタン進出を果たした。

それが、1980年代にかけて一世を風靡した「STUDIO 54」で、アンディ・ウォーホル、マイケル・ジャクソン、カルヴァン・クラインら各界の旬の人々が常連客として日々集い、マンハッタンを代表するトレンドシーンとなった。客の入場チェックも自らやってたらしいから、こういう「場」って客層がすべてであることを知ってたんだね。

この「集う」ということの意味。さまざまなジャンルの人々、才能が縦横無尽に交差して集う「場」が作り出す強烈なパワーを、シュレイガーはディスコ経営を通して学んだにちがいない。

1985年には、日本人建築家の磯崎新やキース・ヘリングらを起用して話題になったナイトクラブ「パラディウム」をオープンさせて大成功をおさめ、エンターテイメントの世界では大御所と呼ばれるような存在になっていた。

ちょっと時代が前後するが、「STUDIO 54」時代、1980年からしばらく世間から姿を消すことになる。脱税の罪で3年半の実刑判決を受け(後にオバマ大統領によって恩赦を受けた)、パートナーと共にしばらく塀の向こうに行っていたのだ。思うに、まあ、その間、彼もいろいろ考えただろうね。これから何をやり、どう生きていくか。

釈放されてすぐに「STUDIO 54」を売却。シャバにもどってきてはじめて手がけた仕事が「モーガンズ・ホテル」だった。

エンターテイメント業界が長かったシュレイガーだが、ホテルを手がけるのは初めてだった。

だからこそ、初めてだからこそ、なにも描かれていな真っ白なキャンバスからホテルつくりを考えることができた。

既成のホテル作りとかホテルインテリアの概念に一切とらわれることなく、自由な発想でホテルをつくった。

彼自身は、自分の内面から新しいものを生み出す人、いわゆるコンセプトメイカーではない。

「EDIT する人」、編集する人である。

社交を通じていろいろなジャンルの人と直接会い、多彩な動きの中から時代をつかみ、才能を見出す。

「モーガンズ・ホテル」は、もともとあった古いホテルをリモデリングしたものだが、インテリアデザインにはフランス人の女性デザイナー、アンドレ・プットマンを起用した。シグネチャー・デザインとなった黒と白の市松模様を用いたモダンでシックなデザインは評判となった。

そして、金をかけずとも、そこに流れる贅沢な時間、シックなアンビアンスを演出することが可能であることを世の中に見せつけた。

これは、ある意味、既存のホテルつくりへの挑戦でもあった。

また、シュレイガーは、人々が「集う」ための「場」として、ロビーを使った。ホテルゲストのみならず、地元の人々も集まり、交わり合う場。時代の旬、今の時間がそこにある、そんなロビーである。彼がディスコで学んだことでもある。

スターウッドの「Wホテル」やライフスタイルホテルと称するホテルたちが後に真似することになるソーシャル機能をもったロビーの原点が、ここにある。

時代の先端、旬の時間に漂っていたい業界人をはじめ、既存のホテルに満足していなかった、とんがった人々がここに集い、彼らが集うことによって「場」はパワーを持った。

このホテルの成功をきっかけに、シュレイガーは本格的にホテルビジネスに参入する。

後にデザインホテルの代名詞にもなったデザイナー、フィリップ・スタルクと組み、1987年に「ロイヤルトン、1990年に「パラマウント・ホテル」をニューヨークにオープン。デザインホテルというジャンルを世の中に知らしめた。このあたりからだよね、うわべを真似したデザインホテルもどきが続々と出始めたのは。

1995年、マイアミに「デラノ」。1996年、ロサンジェルスに「モンドリアン」。1998年には初の海外進出でロンドンに「セント・マーティンズ・レイン」「サンダーソン」。2000年にはニューヨークに「ハドソン・ホテル」とサンフランシスコに「クリフト」。モーガンズ・ホテル・グループとして彼がオープンさせたデザイン・ホテルの数々だ。

が、快進撃はここで止まる。2005年、経営に行き詰まり、グループを売却してすべて手放した。

再び彼の名前がホテル界に登場したのは、2006年のニューヨークの「グラマシー・パーク・ホテル」のリモデリングだった。その頃流行っていたボヘミアンがコンセプトだったけど、うーん、正直いってそれほどインパクトがあるものではなかったね。

そろそろ彼の時代も終わったのかなー、と世間が思いはじめていた頃、2007年、びっくりニュースがホテル界を走り抜けた。

シュレイガーが世界最大のホテルチェーンであるマリオットと手を組んだのである。新しいホテルブランド「EDITION エディション」の誕生である。

次世代のライフスタイル・ブティック・ホテル、というコンセプトで紹介されたものの、実際に2013年に第一号ホテルの「ザ・ロンドン・エディション」がオープンするまで、どんなホテルなのか、よくわからなかった。蓋をあけてみると、若い世代の富裕層向けのラグジュアリー路線で、かつてのツンツンのとんがり路線のデザインホテルとはまったく異なるものだ。

ちなみにシュレイガーは独自路線でも、新しいホテルブランド「PUBLIC」を立ち上げ、2011年、シカゴに第一号ホテル「PUBLIC CHICAGO パブリック・シカゴ」をオープンさせているが、テイストは「EDITION」に近いものがある。

シュレイガー、74才。プライベートライフでは、2008年に再婚しているのだが、この二度目のバレエリーナの妻との間に初めての息子を授かっている。60才すぎて息子を持った男って、何か変わるのだろうか?

そんなシュレイガーだが、今はどんな気持ちでホテルつくりをしているのだろうか?

そう考えたときにふと頭に浮かんだのは、オラクル創業者のラリー・エリソン(本ブログ記事参照)だった。

ラリーと同様、シュレイガーも、ビジネスとか、金儲けのためではなく、自分が好きな世界を純粋に実現できる場としてホテル作りをしているのではないだろうか?

ホテル作りって、人生の荒波のなかで激しく闘ってきた、功成り名遂げた男たちが、自分の世界を楽しみながらやるのにはいい世界だから。

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