I.M. ペイ が作ったニューヨークのホテル

 

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ヤンセンです。

 ↑ この、人を喰ったような爺さん。この爺さんこそ、ニューヨークのど真ん中に住み、パリもロンドンも東京も、世界をガリガリむしゃむしゃと喰っちまった爺さん、建築家の I.M. ペイだ。
 一昨年、102才でこの世におさらばしたが、最後まで、世界の建築界でドドーんとした唯一無二の存在感を持ち続けた。
 実はW大阪」がオープンしたっていうんで、Wホテルのことでも書こっかなぁと思ってたんだけど、安藤忠雄が監修とか言ってるけど、なんつーか、スケールが小せぇんだよなぁ・・・って思ってたときに、鮮やかに思い出したのが、I.M. ペイ。
 僕が彼に会ったのは、1993年秋のことだった。
 彼が設計を手がけた「フォーシーズンズ・ニューヨーク」がオープンしたのを受け、日本の建築雑誌から依頼を受けたインタビューのためだった。
 いまではフォーシーズンズ・グループを代表するホテルみたいに言われてるけど、そもそもあのホテル、「リージェント・ニューヨーク」になるはずだった・・・。まさに、日本のバブルとバブル崩壊を象徴するホテルなんだな、コレが。
 バブルの時代、一時は飛ぶ鳥落とす勢いだった EIE インターナショナル(イ・アイ・イ・インターナショナル)という会社を覚えているだろうか?
 太平洋のリゾートやホテルを次々に買収し、一躍、世界のリゾート&ホテル界の新進気鋭のプレイヤーとして躍り出たのが、この会社のオーナー& CEO の故 高橋治則氏だった。この男、良いホテルを嗅ぎ分ける嗅覚に優れていたね。そんな彼がホテルビジネスのパートナーとして選んだのが、「香港リージェント」や「リージェント・バンコク」などを傘下にもつリージェント・インターナショナルの創業者で名ホテリエとして知られたロバート・バーンズだった。
 ミラノ、バリ島など世界各地でホテル開発を手がけ、ホテルジャンキーたちも次にオープンするリージェント・ホテルはどこか、と楽しみにしていたものだ。
 しかし、バブル崩壊。舞台は暗転する。資金難に陥り銀行の管理下に入ったEIE インターナショナルは、1992年にリージェント・インターナショナルをフォーシーズンズに売却。リージェントとして開発されたホテルは、フォーシーズンズに名前を変えることになった。
 さて、この高橋治則氏とロバート・バーンズのコンビが、ニューヨークのホテルの建築家として選んだのが、パリのルーブル美術館のピラミッドで世界的にその名を知られた建築界の大御所 I.M. ペイ だったのだ。ペイにとっては初めて手がけるホテルだった。

ペイはいったいどんなホテルを作ろうと思ったのか?

 「ニューヨークにはたくさんホテルはあるけれど、どこも帯に短し、たすきに長しで、私の友人を泊めたいと思うようなホテルがこれまでどこもなかったんだ。だから、私が自分の友人を泊めたいと思うようなホテルを作ってみたら、こうなったってわけさ」

ファサードのデザインの美しさも評判になっていた。

 「ファサードのセットバックのデザイン? 市の規制がいろいろあってね、それをひとつずつクリアしてデザインしたら、結果、ああなったんだ。うん、だからね、あれはまあ、ニューヨーク市が設計したようなもんだよ、ワッハッハ」

 彼にとって高橋治則氏とはどんな人間だったのか?

「イ・アイ・イのタカハシさんはね、とても良いオーナーだった。なんでも好きにやらせてくれて、仕事がやりやすかった。うん、そういうのを我々建築家はね、 “良いクライアント” と言うんだよ、アハハ」

 満面に笑みを浮かべながら、どんな質問にも間髪おかずにユーモアをもって答える。同席している部下や、当時はまだホテルのオーナーだったイ・アイ・イの幹部がぴりぴりと緊張した面持ちで横に控え、時にこちらの質問中に「それはちょっと・・・」と割って入ろうとしても、ペイは笑顔のまま、さっと手で制し、あらゆる角度の質問にすべて自分で答えた。そして、それがまた実に楽しそうなのだ。
 ただもんじゃないね、この男。笑うと好々爺のようだけど、そこにいるだけで強烈な光を放つ発光体のようで、発散するエネルギーが凄まじい。彼がつくったホテル、もっと見たかったね。

 

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